森美術館への個人抗議文

 ここでは、森美術館への個人抗議文を本人の了解を得た上で掲載します。まず最初に紹介するのは、私たちの会の代表世話人の1人である宮本節子氏の個人抗議文です。この抗議文には300名近い方が賛同を表明しており、それらの賛同署名つきで森美術館に送付されました。ここでは、個別の賛同者名を除いた本体部分の掲載となります。2つ目は、ポルノ・買春問題研究会(APP)の金尻カズナ氏の個人抗議文です。

「会田誠展 天才でごめんなさい」への抗議と「犬」シリーズ展示撤去の要望

森美術館館長
    南條史生 殿
  

 拝啓
 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、私は2013年1月4日、貴館で開催中の「会田誠展 天才でごめんなさい」を観に行き、そのうちのいくつかの作品に関して、特に「犬」シリーズに関して、公共空間である美術館で展示するのは甚だ不適切であると考えました。なぜ、不適切であると考えたのかをまとめ、友人や知人、不特定の人々にメールで発信しましたところ、賛同して下さる方々がおられました。
 以下に、私の呼び掛け文と賛同者名簿を添えますので、どうぞ、「犬」シリーズの展示作品からの撤去をご勘案下さいますようお願い申し上げます。
 なお、この文書のコピーは貴館宛に郵送した後直ちにマスコミ各社にも配信、ないし郵送します。
 敬具
          宮本節子

 皆々さまへ
 現在、六本木にある森美術館で開催中の「会田誠展 天才でごめんなさい」を観に行き、びっくり仰天して戻りました。その感想をお伝えします。
 とりわけびっくり仰天した‘作品’は「犬」と題された6連のものです。全てのモチーフは、四肢を切断され、その断端には薄く血がにじむ包帯が巻かれた裸体の美少女が犬の首輪に繋がれてさまざま姿態を取ってほほえんでいる図柄です。聞くところによると1989年宮崎勤事件があった時にはすでアダルトビデオでは女性や女性を象徴するモノの四肢切断イメージが存在していたようですが、今や四肢切断の少女のモチーフはネットのポルノサイトでは一つのジャンルとなり、過激に進化の一途をたどっているようです。ネットのポルノサイトのモチーフが森美術館という表の大舞台に躍り出て来た、そんな印象で仰天したのです。
 以下の理由により、森美術館に抗議し、‘作品’の撤去を申し入れしなければならないと考え、皆さまに行動を共にして下さることを呼びかけます。

《宮本が展示に抗議し撤去を申し入れる理由》
 手足を切断された美少女をモチーフにした絵は、美術館に展示されただけで‘芸術’として承認してしまっていいのか。手足を切断された少女の身体がモチーフとされて、伝わるメッセージは何か。手足切断の日本人男性、白人男性、黒人男性では決して代替できないメッセージとは何か。会田誠氏の作品の中でもとりわけ「犬」シリーズを問題にする。これらの‘作品’を森美術館という公共の空間に展示されていることに強く抗議し、撤去を要望したい。

 なぜ、私はこのシリーズを公共の空間である森美術館に展示してはならないと抗議し、撤去を申し入れるのか。
 「犬」シリーズは、モデル(少女)の尊厳と品位、即ち、女性、ひいては人間の尊厳と品位をこれ以上にないまでに侵害し、傷つけているから・・。この一点だ。
 どのようにモデル(少女/女性)の尊厳と品位を侵害し傷つけていると言えるのか。
 主体(モデル)の側に、自分の四肢を切断する必然性が全くないことがこの‘作品’の前提となっている。従って、その四肢切断された身体に加えられている全てのことは主体の意思に関係なく他者によって強制されたものだと言える状況下に置かれている。
 その状況下でなされていること全てにおいてモチーフとされた人物(女性)の尊厳を著しく侵害し、傷つけている。そのような‘作品’が、目下、森美術館に展示されている。
 女性、ひいては人間の尊厳や品位を著しく侵害し傷つけている理由は何か。

 1:四肢切断という行為は主体的必然性がないのにも関わらず、された場合は一般的に拷問、激しい暴力が実行されたと考えられる。
 2:身体に加えられた一方的な暴力について一切の批判がない。結果、一方的に加えられた激しい暴力を肯定しているかの如くに見える。
 3:他者の四肢切断行為は究極の支配の象徴である。従って、究極の自由剥奪である。批判のないこの‘表現’を受け入れることはできない。
 4:描かれている人物(少女)は犬の首輪で繋がれている。人間を犬の首輪でつなぐ行為は、人間の尊厳に対する究極的な侮蔑、凌辱の象徴である。
 5:中には、まさに犬のように四つん這いになって吠えたり、犬の皿を前に舌を出したポーズをしている少女もいる。
 6:このように人間に対するあるまじき暴力、凌辱を受けているにもかかわらず描かれている人物(少女)は、これらの行為を受けていることにある種の(性的)恍惚や(性的)媚びの表情を浮かべている。
 7:見る者、描く者の性的欲望がむき出しに描かれており、見られる者、描かれる者は、見る者や描く者に対して全面的な同意、従順、服従を表している。
 8:2に重なるが、他者による暴力的な四肢切断という身体への究極で修復不可能な暴力を描いているにも関わらず、侵害されている当事者の苦しみ、悲しみ、怒り、凌辱される屈辱には一切無関心、ふれていない。

 モデルは、人間一般ではなく、特定の人種でもなく、美少女であることがこの‘作品’にとって最重要となっている。少女は、描き手の性的欲望の対象、象徴となっている。
 このように一方的に生殺与奪を握った強者によって弱者の立場に置かれた者の状態を、弱者の立場に置かれた人間への尊重、尊敬を一切排除して表現し、公表することは、人間に対する尊厳と品位の侵害以外のなにものでもないと断言できる。
 モチーフが少女だから、子どもだから、いけいない、だけではない。その少女は女性であり、人間だからだ。若い女性の四肢を切断することを主題にしたイメージで、性的欲望やセクシャリティを重ね合わせて表現すること自体が、女性の尊厳の侵害だ。個人的な性嗜好を満足させるために、人格を有している他者の身体をまるでモノであるかのごとく扱って‘表現’していること自体が他者への冒涜だ。絵画の中の人物には人格がないなどと言わせない。私たちは絵画の中の人物を見る時、その人物を誰と特定できなくても、表現された人物の人格を見て取る。いたぶられ、侵害され、冒涜されている人物の表象を見る時、その人物がそのような扱いを受けて当然だと思う文脈、必然性が伝わる社会的文脈の中に置かれている。少なくとも会田誠氏の「犬」シリーズを、私はそう読みとる。もちろん、自覚的に、当然と思うかどうかが問題ではなく、そこにそうしてある表象に何の疑問を抱くことなく、表象としての出来栄えやその含意――この場合は性的な欲望――を他者の‘作品’によって自分が満足する一連の相互作用が問題なのだ。このような‘作品’をかりそめにも‘芸術’などとして肯定的に評価してはならない。

 モデルの女性は、日常の中にいる少女一般であって、そのなにげない日常性こそが中核となっている。しかも背景は、少女の無残な姿態に比べて極めて美しく描かれている。手術室ではない。戦場ではない。拷問室ではない。描かれている背景にあるのは、通常このような四肢切断の身体が仕上がるであろうと理解できる状況とはなんの脈絡もない美しい日常である。四肢切断されたその女性は美しい日常性の中に置かれている。この日常性こそがこの‘作品’にとって大切で、少女が受けているサディスティックな状況を際立たせる。それはごく普通にいる、通りすがりの、隣の、若い女性を想起させるゆえに日常が大切な含意なのだ。その日常の美しい世界で、若い女性の身体を持つ少女をいたぶり、慰み物にしている。描く側はそれ自体を目的として描いているのであろう。見る側は激しい嫌悪を抱くか、そこに性的嗜好を満たすかに分かれるであろう。
 私は嫌悪し、拒否する。

 そもそも、この若い女性はどのようなシチュエーションで四肢切断されたのだろうか。
 少なくとも若い女性の側には主体的な必然性は読みとれない。
 主体的な必然性がないのに、四肢切断という人間の身体にとって極めて攻撃的で破壊的な行為を加え、かつ、美しきものとして描き表すことの意味は何か。他者による女性の身体への攻撃、極めて激しい暴力を加えることへの性的快楽の表現というより他にないのではいか。他者への身体の暴力だけを目的とした攻撃行為を表現し、さらに性的嗜好を表現し、あまつさえ、この性的嗜好に標準を合わせ、性的嗜好を山盛りに加味した‘作品’を公共の空間に曝していいのか。
 女性や人間の尊厳を重視する全ての人々は、極めて不快な思いを抱き自分自身の尊厳が侵害されたと感じるであろう。中には、自分の受けた性暴力を想起しフラッシュバックに苛まれる人もいるであろう。事実、私が呼びかけた人の中には、カタログの図を見た上で、この作者と作品には関わりを持ちたくないと激しい拒否感や嫌悪感を示した人もいた。見ること自体で自分が受けた暴力がよみがえると・・。
 美術館である以上、全ての人々に開かれている公共空間である以上、見たくない人は見なければいいなどといわせない。
 これらのシリーズは多くの人々の感情も尊厳も傷付けずにおかない。

 主体の側に四肢切断の必要性が全くないのに、切断の状況があるということは、通常の理解では、その主体に対する暴力が存在しているということに他ならない。この暴力は身も心も修復不可能な究極の暴力でもある。
 このような一方的な暴力を表現することの意味はなにか。表現される側に必然性のない暴力を全く批判なしに‘表現’することにより伝えられることは、他者対するによる徹底的な支配、無制限な残虐行為、他者による女性の身体のモノ化である。ここには、主体、他者関係の絶対的な支配従属関係があるのみで、人間的な関係性の入り込む余地はない。つまり、支配下におかれた女性はモノであるというメッセージである。他者によって何をされてもいい身体など存在しない。存在させてはならない。
 会田誠氏のシリーズは(多分)多くのこのような性的嗜好を持つ者が‘表現’として表舞台でやりたかったことではないだろうか。しかし、今まではやらなかった。できなかった。そこにはある種の社会的抑制や規制が働いていた。してはならないという暗黙の社会的了解があった。会田誠氏はそこに挑戦した。社会的抑制や規制を破った故に、‘反権力’ないし‘反権威’として一部で英雄扱いをされているのではないか。その‘作品’は今まで表舞台でやりたくてもできなかったことを実行した故に‘反権力・反権威’ともされるであろう。あるいはサディスティックなありさまを一見何気なく美しいものとして‘表現’している故に一部の人々から‘前衛’とも評価されるであろう。またこれらの‘作品’を企画展示しした森美術館も会田誠氏の‘反権力・反権威’やその‘前衛’を後押しする美術館として業界ではそれなりに評価されるのであろうか。
 しかし、社会的抑制や規制を破ることは、そのことだけで反権力的行為として評価されていいのか。社会的抑制や規制は時の権力だけによって形成されているものだろうか。反差別の歴史的な闘いとその蓄積をみれば、一般大衆の、とりわけ被差別者の勝ち取った成果でもあることは明白だ。時の権力が狡猾に利用した例にもいとまはないにしても、だ。また、他者に加えられた激しい暴力を何ら批判なく‘美しきもの’として‘表現’していいのか。
 森美術館が行った会田誠展によって、この社会的抑制や規制が破られ、今まで‘表現’としてしたくてもできなかったことを表舞台で出来ると欣喜雀躍している‘表現者’は続々と現れるだろう。それで、女性や障害者、差別されている人々は幸せになれるだろうか。

 浜田知明の「初年兵哀歌」には一枚の衝撃的な作品が収録されている。それは、レイプされた後、死体となって大地に仰向けに横たわり両脚を広げ真ん中にある性器に棒杭を差し込まれている女性の姿である。戦争中の中国大陸の事件を題材にしている。この作品が公共の美術館に展示されても、画集に収録されていても、通常はモチーフの残虐さや女性の身体に対する冒涜性のゆえに非難はされないだろう。残虐な図柄であるが、その残虐さを楽しむために描かれているのではない。
 会田誠氏の‘作品’は、まさに他者に対して行う残虐さを楽しむために描かれている。浜田知明の作品を観る者は、そのような残虐な行為が一人の女性の上になされたことを告発する制作者のヒューマティのありように共感するのである。浜田氏の体験したことは戦時下の個人的な事柄であろう。しかし、その個人的な体験を描くことによって、戦争の残虐さ、戦争の大義に無さを社会が共有すべき事像だという意味を見出し、そこに私たちは共感する。このためにはむごい状況におかれた女性の身体を必要とした。会田誠氏のように女性のむごい姿態を描くこと自体が目的化されたわけではない。浜田知明はむごい肢体をモノとして扱っていることに違いはないが、モノとして扱っているのは制作者ではなく戦争という大状況である。制作者はモノとなった女性の肢体を通じて戦争の理不尽さを告発した。理不尽さを告発するのにはモノとなったこの女性の身体を必要とした。しかしながら、モノとして扱われた女性から言えば、どんなに善意のヒューマニティであろうとも自分のこのような身体を公衆の目に曝されることは断じて拒否したいであろう。大きな矛盾ではある。
 繰り返しになるが、浜田知明と会田誠の決定的な違いは、前者はモノとして扱われている女性のむごさ、ひいては人間の尊厳を踏みにじる不正義を描き、後者は女性をモノとして扱って見せる行為自体にある。

 個人の性的嗜好や趣味を満足させるために、一個の人格を持った人間を公けの場でなぶりものにする必要はない。個人の性的嗜好や表現の自由を否定はしない。かげでこそこそやればいいのだ。ただし、蔭でこそこそやるにしても最低限、頭の中の妄想だけですませればいいのだ。どのような場合であっても、実行(表現する)に移す場合には、人間の尊厳を脅かしてはいけない。

追伸
森美術館館長 南條史生殿

 私たちすべては表現の自由を有しています。ただし、当たり前のことですが、その行使には、他者の命や尊厳を侵害しない限りという限定が付いています。
 「犬」シリーズのモデルとなっている若き女性は架空の人物かもしれません。しかし、彼女には人格があり、彼女の身体は傷つけられ、心や精神も脅かされています。だから、彼女を見る私の心も痛み、私の身体にも彼女が感じているだろう痛みを強く感受するのです。
 性暴力を受けた女性がこのシリーズを見たなら、強い衝撃を受け、癒えない生傷を再びえぐられる思いをすることでしょう。
 私は、男性側のセックスの快感を得るために歯は邪魔だと抜かれてしまった女性が実在することを知っています。
 体中にいたずら書きのような入れ墨を施されてしまい、温泉や公衆浴場に入ることが出来ない身体を持つ女性が実在することを知っています。
 また、私は、犬の首輪はドメスティック・バイオレンスの小道具の一つだということを知っています。
 性暴力を受けたこれらの女性たちは森美術館に展示されている「犬」シリーズやその他女性を貶める“作品”を見た場合、ひどく傷つくでしょう。でも、抗議の声を上げることができません。なぜなら、なぜ傷つくかを他者に伝えることによってでさえ、さらに深く傷つく状態にあるからです。
 多くの人々が傷つく蓋然性のある作品を公共の空間である美術館に展示してはならないと強く訴えます。
 以上は貴美術館に抗議する私の感想と意見ですが、私のこの感想と意見に全面的に、ないし一部賛同して下さった方々のお名前を以下に列記いたします。

代表抗議者 宮本節子(東京都 社会福祉法人小諸学舎理事/フリー・ソーシャルワーカー)
抗議賛同者 小林高義(東京都 中野総合病院神経内科部長/神経内科医)
 抗議賛同者 277名
 匿名賛同者 10名
 合計    289名

森美術館への団体抗議文英文団体抗議文2

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森美術館への個人抗議文|1|

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